クリスマス人生講座:馬鹿にできないもの

私達はよくある事や、ある人、またはあるものを馬鹿にしてしまいます。馬鹿にするというのは色々と種類がありますが、必要がないとか、それはやっても意味がないとか、時間の無駄だとか、そんな風に思うわけです。年齢と共に、こういった馬鹿にする対象は変わっていくもので、幼少の頃には馬鹿にしていたことが、「馬鹿にできなくなったりします」。これは非常に難しいことで、人間が必要なことは年齢や脳の発達、身体の発達、心の発達によって変わってくるものであるがため、どうしたらいいかなかなかわからなくなります。

例えば小学生の男子は女の子を馬鹿にしたりします。そして、男の子であることを誇りに思っていたりします。しかし、思春期になるとこれがとんでもない過ちであったことに気づいたりするものです。このように、馬鹿にできるものとは、または馬鹿にすることは、自由で、その時は普通に思えたりするものですが、気をつけないと後で非常に損をすることがあるのです。 そして、いつも起こることは、決して馬鹿にしなかった人が後で非常に得をしたりするということです。

しかしながら、馬鹿にするのにもちゃんと理由があったりします。例えば、その時、その馬鹿にする対象があまりにも自分にとって、またはみんなにとって、得にならないことであったりする場合です。その場合、それを馬鹿にすることは正当な行為に思われ、みな、それに納得してしまうのです。では、なぜ、馬鹿にしたことを我々はいつも後悔するはめになるのでしょうか?これは、意外と人類の抱える大きな問題または難問であると考えられます。

恐らく、馬鹿にされていた「それ」はその時は、「ダメ」なものだったのです。しかし、我々が歴史の隙間で垣間見るように、たった「これだけ」のことが大きな結果を生み出すことがあります。逆に、馬鹿にしていなかった「うまくいっていたもの」がたった一つの事件で「全くダメ」になったりすることもあります。 ということはどういうことかというと、「ダメ」なものや、「うまくいっていたもの」というのは簡単に言えばいつも変化しているということです。

なんだ、簡単なことです。当たり前のことです。ではなぜ、我々は、この当たり前のことがいつも理解できないのでしょうか?それは、心の構造に原因があります。心というものは「実は」、機械のようなものでもあります。機械は一定の動作を繰り返します。人間が朝起きて、夜寝るように、心は「機械的な動き」をすることがあります。そして皆さん御存知のように、この機械的な動き以外のことをするのが「めんどくさくなったりします」。これは非常な難問です。ではどうしたらめんどくさくなくなるのでしょうか?ちょっと、わたくし、書いていてわけがわからなくなってきました。恐らくは、めんどくさくなってきたんだと思います。要するに、疲れるのです。機械的にやっていた方が疲れないのです。なので、疲れない方を選びます。問題はここです。私達が疲れないようにしているとき、「ダメ」だった彼らはまだ体力があるということです。我々が疲れて、機械的になっている間に彼等?は体力を温存していたのです。そして、我々が疲れきったところで、馬鹿にされていた「ダメ」なものは、じりじりと成長していきます。しかし、機械的な心の動きに支配されている我々は、そのような(「ダメ」な)彼らの動きなどはどうでも良いくらいに疲れていて、彼らの静かなる成長を見逃してしまうのです。

さて、これから学べることはなんでしょうか? 文章を書き終わってみると、どうも「疲れた」というところに問題があるようです。 ということは、逆に疲れないようにするにはどうしたら良いのでしょうか? そもそもなぜ「疲れた」のでしょうか?私はこの文章を書いているうちにあることに今気がつきました。私は「ダメ」とか、ある種類のものを括弧でくくっています。この括弧で分類をはっきりとさせる作業は結構ワープロを打つ上でも疲れる作業です。ここで、私は思います。恐らく、分類するからいけないのではないか?では、分類しなかったらどうなるでしょうか?そうです。「ダメ」とか。「良い」とか分類しなければいいのです。そうすれば、馬鹿にすることもないし、後で馬鹿にしたことを後悔することもありません。とりあえず、私は疲れたので、この辺でやめときます。そうか、分類しなければいいのね。なるほどね。

2000年12月23日

メリークリスマス