空想と悲しみと悲劇の詩

                    

その森に入るとあたりは神秘的な新鮮な空気に覆われ、頭の中が緑色になっていくのが感じられた。それは緑色でありながら、太陽が光っているようなかすかに光が頭の中に差し込んでいるのが見えるようなものだった。木が横たわっていたので、そこに座り一服した。しかし、このような美しい森に吸殻を捨てていいものかどうか私は迷った。しかし世間にはそういう人もいるんだろうか?と思っていると、そこに吸殻入れが現れた。それはすでにそこにあったのか?さっきまでなかったような気がする。が、そこに私は吸殻を入れた。こんな森の中でも水が入っていた。誰がいれるんだろう。私は森の中を軽快に歩き始めた。森は楽しく私に微笑んだ。私はみんな木が私を見ているのを知っていたが、あえてそれを知らないふりをした。りすが道を横切った。りすはなんであんなにかわいいんだろうと思いながら、私はそこで気を失った。そこで私は不思議な夢を見た。りすが大きくなって僕の前に立っていたのだ。りすは腕を組んで立っていた。そして僕を見つめていた。何かがなっとくできないような顔つきをして。僕は寝たままリスを見つめていた。どういうわけか、その「部屋」には僕用のベットがあってそこはりすの家のようだった。しばらくするとりすはキッチンに行って料理をはじめた。もちろん、材料はどんぐりだった。りすはどんぐりを丸かじりするのかと思ったがそうではなかった。ちゃんとゆでたりしているので面白かった。ちょうどその場面で私は目を覚まし、森の中で寝込んでいるのを発見した。

 

猫温泉

                     

丁度登山の途中だった。その秘境の温泉を発見したのは!湯けむりが立ち込める温泉のにおいがするその場所へいくと、猫が数匹、社長ずわりして温泉につかっていた。猫は人間のように立っていてというか、座っていて、タオルを首に巻きつけていた。そこへいつもどうもという感じで、さるがやってきた。さるは、温泉に入るときにちゃんと猫にあいさつというか、会釈のような動作をしていた。しかし、猫は踏ん反り返ったまま知らん振りして、嫌なけだものが入ってきたという感じの顔つきをしていた。私はこの不思議な光景を見てただ驚くばかりだった。周りは岩だらけで、さるがいてもおかしくないが、なぜ猫がこんなところにいるのかが解らなかった。そこで私は急いで写真を撮ろうとした。なぜなら、猫がそろそろ湯から上がりそうだったからだ。リュックサックを探し回ったがない!ない!私はあせった。そしてそのとき、私は足をすべらせ、というか、足元の岩が砕け、まっさかさまにおっこちた。気がついたときは、村の住人に囲まれていたが、また気を失ってしまい。次に気がついたときには東京の病院にいた。それ以来、私は何回か登山に行っているが、決してあの温泉を見つけることができないし、あの村を見つけることもできない。あの近くにはいくのだが、どうしてもあの岩だらけの場所が見つからないのだ。そしてあの村も。非常に残念でならない。写真家としてもある程度のものを作りたかった私にとっては、一生悔やむ経験だ。なんじゃこの話は??

 

山の向こうに見えた海
                 

鎌倉の源氏山公園付近の細道を歩いていると七里ガ浜が鎌倉を囲む小高い山に囲まれて見えてくる。そしてそこには太陽に照らされて光輝く海が見える。丁度人が多い砂浜は見えず、海だけが見える。地平線のかなたにもっと海があり、色んな島々があるのは知っているが、私はこの世界があの地平線で終わっていることを願った。なぜならば、最近の世界は広がり過ぎているからだ。どこかで止まるところがないとついていくことができない。この太陽に照らされ輝く海こそが人類の宝であり、お金などはあまり関係ないのかもしれない、と突然思った。悲しいかな、こういう健全な発想は長くは続かないものだ。続いても2日か3日だろう。しかし、最近はそういう自分の限界というものを知るようになった。健全な自分の限界だ。人間はどうしても雑念や、欲望にかられて失敗してしまう。そうだ、私がなぜあの海に関心したかが解った!あのきれいな海はいつも輝いているわけではなく、太陽に照らされ、波風が少ない今日のような日にだけあのように見えるのだ。いつもあのように素晴らしいわけではなく、雨の日や風の日にはもっと薄黒い、気味の悪い光景に違いない。こんなことを考えながら、私は休暇の散歩をしていた...

悲しみの泉

                     
何でも終わりというものがあり、だから歴史は成り立つ。一つの過ちが破滅をもたらす。それまでの努力が全て意味がなくなってしまうことがある。そういう時、人々は悲しむしかないが、それと同時に新しい時代の訪れというものが次に見えているのも事実だ。この世にはどこかにいつも悲しみの涌き出る泉があるという。そこからいつも悲劇や惨劇が涌き出ていると同時に、その泉の水を飲むと新しい時代に向かって生きていけるという。この泉の伝説はあまり知られていないが、一部の悲しみを知った人々の間では良く知られており、悲しみに明け暮れた時、みなその泉に集まってその水を飲むという。そうすると、新しくも悲しい時代にも心の病にかからずに生きていけるというのだ。私も今日その泉に行ってきた。そして、皆と古い時代の終わりを嘆き悲しみ、そして新しい時代に希望を持とうと約束した。これを悲しみの泉の誓いといい、過去の歴史の中でもなんども交わされてきた秘密の約束事なのである。この泉が枯れることは決してないそうだ。地球がある限り。

海の中

                    
僕は海の中にいたい 僕は海のなかにいたい。たこと一緒に踊りながら。岩の影に隠れて鬼ごっこ。7色にキラキラ輝く魚達と追いかけっこ。僕は海の中を自由に歩き回ることができる。今日はどこへ行こうか?かにと遊ぼう!みんなと遊ぼう!サメが来るときは気をつけて、砂をかければ大丈夫、目が見えなくなって逃げるから。くじらがきたら一緒に昼寝。イルカが来たら水泳大会。ああこうして僕はいつも海の中にいる。毎日が楽しい。なぜなら、周りはいつも綺麗で新鮮で、お風呂に入らなくていいからだ。

         不安君         

不安君がまたやってきた。不安君はよく僕のところにやってきて、指の皮をむいたりするのであまり好きじゃない。「不安君なんで君はそんなことするの?」と僕は聞いた。「それは君が働こうとしないからさ」と不安君は言った。「でも僕は医者に当分休むようにって言われてるんだよ」と僕は言った。そうすると不安君はこう言った。「だったら不安君を呼ぶのをやめたらいい」、最初僕はこの意味がわからなかった。でも次第に分ってきた。不安君は言った。「僕はね、君が来い来いっていうからいつも来るんであって、好きでくるわけじゃないんだよ」、「なるほど、じゃあ、どうすれば君が来ないようにできるんだろう」「僕が君を呼んでいたのは何となく分っていたけど、君にはちゃんとそれが聞こえていたんだね」。不安君は言った「そりゃそうさ、だって僕は君専属の不安君なんだから」。「あそうなの?不安君は専属制なの?」「そうだよ、僕は君が生まれる頃から君のところに配属だったんだ。小さい頃はかわいくて、あんまり出番がなかったからつまらなかったけど、最近は君がしょっちゅう呼ぶもんで忙しくてしょうがないよ」。「そうか、不安君ゴメン。これからはあまり呼ばないように気をつけるよ」「頼んだよ....」。不安君は空に向かって去って行った。そうか、僕が不安君を呼んでいたのか、知らなかった。これからは気をつけることにしよう。翌日、僕は八幡様にお参りにいった。そして、幸福様に願った。「幸福様、これからはどうか僕が不安君を呼ばないで済むようにしてください」、すると幸福様は答えた。「わかりましたそうしましょう、その代わり三つの約束を守らなければいけません」なんだろうと僕は不安になった。「一つ、適度に眠ること、二つよく食べること、三つ、いつも笑顔でいること」。「はい、わかりました」と僕は言った。あれから3年が経つ、不安君は最近こなくなった。最近は恐怖君が来るようになったからだ。今僕は恐ろしい。とても恐ろしい。なぜだか分らない。でも、恐怖君が秘密の呪文を唱えて僕の恐怖を倍増させるのだ。幸福様にお祈りしても幸福様は最近僕を見捨ててしまったように思える。どうしてこうなってしまったんだろう。僕には分らない。僕はどこかで過ちを犯したに違いない。それがわかる日までは、僕はいつも誰かを呼ばないといけないんだろう。最近僕はなるべく笑顔でいるようにしている。そうすると、幸福様がちらっと見えることがある。

                        眠り君                          

僕はいつも寝ている。昼も夜も寝ていることが多い。あんまりよく寝るので、時々、今経験しているのが夢なのかそうでないのかよく分らなくなることがある。ちなみに今、こうして書いている自分も夢の中で書いているのか、そうでないのかよく分らない。最近になってわかってきたのは夢の中で幸せな体験をするのとそうでない時に幸せな体験をする時ではさほど違いがないということだ。ちなみに最近はどっちがどっちだか分らなくなってきているので、良い方を夢でなかったことにしている。悪かった場合は多分夢だったんだろうと思ってまた寝る。よかった場合はああ良かったと言ってまた寝る。こうすると、悩みというのがあまりなくなるという事に気がついた私は昼も夜も寝ることにした。その結果、最近非常に幸せな人生を送っている。

 

小象と話した話

僕は小さい頃インドで育った。ある時、家の近くの森で象の群れがいた。ところが、いっぴきわんぱくな小象がいて、あっちこっちにはしゃぎまわっていたら、群れと離れてしまったらしく、僕のうちの庭にやってきた。おかあさんが見つからないらしく、悲しく恐ろしそうに泣いていた。僕は近くにいくと鼻をなでてやった。小象だったので、あまり恐くなかった。小象は僕が安心できると思ったら、座った。僕も安心したので芝生に寝転んだ。そろそろ夕焼けも消え、星が見え始めていた。小象と僕は一緒に星を眺めた。突然小象が鼻を動かし始めた。何かと思うと、何か空の方に向けて鼻を向けている。最初はなにかわからなかったが、空に流星が流れていたのだ。小象君はそれを僕に教えてあげたかったらしい。きれいな流れ星だった。それから小象君は鼻を使っていろんな星を指し示し、色々僕に教えてくれようとした、よくわからなかったが、僕には小象が何を言っているのか大体わかるような気がした。小象と僕はそのまま一番暖かい庭で眠った。翌朝大きな象の泣き声で僕達は目覚めた。小象のお母さんがやってきたのだ。小象はお母さんのところへいくと、しばらく何かを話しているようだった。するとお母さん象が僕のところへゆっくりやってきた、そして僕を鼻で捕まえて背中に乗せてくれた。そして、僕は一日象の群れと共に色んなところへいった。夕方になると象の群れは僕の家へ戻ってきて、僕を下ろしてくれた。僕がさよならの手を振ると、象もさよならの鼻を振っていた。小象が僕の方を見てさみしそうな顔をしていたので、笑顔でさよならをすると、小象は、大きな声で鳴いた。 そして、象の群れは森の中へ去って行った。

                                    

                           別れの時(悲しみの大切さ)

別れるというのはつらいものだ。今までそれが全ての欲望のブラックホールであり、発信元である場合はなおさらだ。しかし、人間は社会というものを形成しており、いずれ別れなければいけないことがある。社会は、自由な行動や自由な交流関係を許さない場合があるからだ。ブラックホールに吸いこまれてしまいたいという欲望が出てきたら要注意である。これは、世界滅亡を前提とした自殺行為に等しい。それよりか、宇宙船に乗って、必死になってブラックホールから離れ、最後にはブラックホールを遠くから見つめて涙する方がはるかのその後のためによい。

                                老人の一日

その老人はいつも公園にでかけるのが日課だ。公園のいすに座って、前で動き回る子供達をまるで感知しないようにゆっくりと思い出に浸っている。実はこの老人かなりのロマンチストでいつも昔の恋のことを考えているのだ。そして涙がでそうになるのを必死に押さえたりしている。しかし、周りの子供達は全くそんなことは知らずに遊んでいる。この老人にとって、そのような子供達の無関心さこそが心の支えになっているのだ。この老人はもう自分が恋できる年齢でないと分っている。いつもつえを持ちながらこの公園でじっと座っている。この老人にとって、今までの人生などは結局どうでもよく、恋の失敗だけが頭に残っているのだ。かわいそうに。ある日若いカップルがこの老人の横に座った。老人はあせった、そして心の中で怒った。そして若い男を恨んだ。もう一度若返りたいと願った。その日は落ち込んでしまったようで、老人は夜中まで公園に座っていた。そこへ、女子高校生の売春婦がやってきた。この女子高生は以外と悲しみについて理解があり、老人の顔を見て、すぐに近づいていって「どうしたんですか」と言った。老人はうれしさと共に緊張感を覚えた。「いや、実は、、」と老人は今までの恋の物語を延々と女子高生に伝えた。女子高生は朝まで話を聞いてあげた。そして最後に言った。「お金、一万円」。老人は財布から一万円をすぐにだした。すると、女子高生は去って行った。それ以来、この老人はあまり恋について悩まなくなり、元気になり公園で座っていることなく、子供達に向かって笑顔を見せたりするようになった。この老人は81才から91才まで公園に通いつづけ、いつかあの女子高生と会うことを楽しみにして、91才の冬の寒い日に公園で亡くなった。今でもそのいすには時々誰かが花を添えてくれていると言う。この老人に家族などがいたかどうかはよくわかっていない。住まいも警察が調べても分らなかったそうだ。

                              つかの間の幸せ

私は大抵の場合、つまらないか、悲しいかどっちかだ。しかし、時々、何の理由もなしに幸せな気分になったりする。決して長くは続かないのだが、この瞬間はとても貴重なもので、何ににも変えることができないと思っている。この種の幸せな感じは理由が伴っていない場合が多く、パッと起こるもので、しばらくその状態が続くのだ。その少し前までは世界が終わるかの如くなやんでいたりする場合でも、こういう瞬時に発生する幸せは存在し、そう言う事があるために生き長らえているような気がしないでもない。もし、これが無かったら、苦しみのあまり、生きていられないだろう。しかし、この幸せのメカニズムは不思議だ。非常に不思議だ。何の前触れもなくやってきて、次の朝はなくなっていたり、ある情報が目に入ってきただけで瞬時に消えてしまったりする。できればこのようなつかの間の幸せが長く続いて欲しいものだ。

                               自転車

自転車に乗って車をよけながら、ブレーキをかけながら、ぎりぎり道の横の細道をくぐりぬける。こんな時僕は非常にスリリングな感じがする。頭の中では堕落した軽快な明るい音楽が流れるかのようだ。車に謝る必要なんかない。だって車は僕より速くあっちへ行ってしまうから。バイバイって感じ。カーブを曲がる時両手を離して足のバランスで曲がるのが僕は得意だ。90度反転だってできる。それが大抵うまくいくけど、うまくいったときは、頭の中で何かいい物質が放出されるようで気持ち良くなる。こういう時は止めて欲しいなんて思わない。ずっとカーブを曲がりつづけてぐるぐる回っていたい気がする。坂道を両手なしで上るのが一番難しい、バランスのとり方が非常に難しいのだ。特に上から障害物が向かってくる時はそうだ、それをよけるためにバランスを崩し、横にそれて、それから両方のバランスをとって上に向かって行く。この時に足にかかる重さは結構なものでなかなか上に上がれない時があり、やむなく途中でストップすることがある。逆に坂道を両手を離して降りる時はたとえ道が45度〜90度曲がっていても全く問題ない。両手を大空に向かって広げることができる。風が顔に当たり気持ちがいい。そういえば一年くらい自転車に乗っていない。最近は家にこもりっきりなので少し外に出るだけで足が痛くなるような情けない体になってしまった。でも自転車にもう一回乗る気にはなれない。最近は太陽に当たってないので顔も青白くなってしまった。最近は、ひたすら過去の人間の軌跡(歴史)を勉強している。人間とはなんなのか考え中だ。でもどうも答えが出そうにない。あの自転車にのって楽しかった頃が懐かしい。

 

                                何とかして

最近、何とか精神的に持ちなおそう、まともでいようと、懸命になっているが、受けたダメージは多く、また、他人の事も心配になり、さらには最近親友が死んだというニュースがあり、悪いことは続くというジンクスは本当だと思いました。そんな私を支えているのは、こないだ行ったお寺の岩達だ。数々の美しい岩は何百年も前からあそこにあり、じっとしていたに違いなく。その岩に囲まれたにごった池に住む鯉たちもずっとあそこにすんでいたに違いない。あのような存在があるということは、私だってこれくらいのことで落ち込んではいけないのだろうと考え、なんとか再生を夢見ている。過去の歴史は、滅亡を復興の繰り返しだ。復興はいつになるか分らないが一生懸命待ってみよう。岩を思い出そう。決して動かないあの岩を。岩とは不思議である。ただの地球の一部だが、日本文化では特別な芸術品として、特に変わった形の、特にいびつなものが良いとされ、私もそう感じる。そんな岩の中に3人の仁王像が立っており、そこから水が滝のように池に向かって落ちている。その光景を見て私は非常に血なまぐさい何かを感じた。なぜだろうか。しかし、滝が落ちる池では、コイ達がゆうゆうと泳いでいる。古いこけなどと一緒に、彼等の食料はこけなんだろうか?お寺の住職が何かあげているのだろうか。コイ達は恐らくは現世の雑念から一切を断ち切り修行僧のような生活をしているに違いない。私はお寺の御賽銭箱に555円を入れ、祈った。「全ての人々に幸福のあらんことを」「どうか私の犯した罪を許してください」「これからはもうしません」「私を助けてください」。

 

                                春の静けさ                                

涼しい風が窓から入ってくる。からすの鳴き声が聞こえる。恐ろしい冬の暗黒からさくらのように美しい春への転換期のこの静けさ、このうるわしさ、この美しい世界。私の心は癒され、脳の中の物質も考えなくても自然に自動的に何も考えないで動いている。このうるわしくも美しい季節がずっと続けばいいが、いずれ魔のように暑い夏、しかしながら、懐かしい夏がやってくる。夏と言うのは過去に存在する。未来にあっても過去の季節、夏。海水浴で水につかる夏、涼しげなプールで泳ぐ夏。それが終わりに近づくと夏は改めて過去のものとなり、秋が訪れる。秋には木の葉は紅葉し、赤くせつなく風に揺られる。次第にかすんでいき、最後に地に落ちたまって山となる。そしてそんな美しい落ち葉もいつのまにかなくなり、また、白い雪と共に冬がやってくる。こう考えると、僕はなんて素晴らしい世界に住んでいるんだろうと思えたりする。

                               協会と宗教                                

私は別にキリスト教徒ではないが、協会の持つあの独特の雰囲気に興味がある。なぜ、あの聖人は十字架にはり付けられているのか、なぜあの聖人は人をひきつけるのか、それと同じに思うことは、インドの神々のことである。協会の中でルール通りにひざまずきながら、私は同じにインドでガンジス川に浸って喜ぶ人々のことを考えた。いったいこの違いはなんなのか?さらにいえば、神というものを否定するかのごとく思える日本の神道とはなんなのか、神道が重んじる神木のあの聖なる香りはなんなのか。インドでは聖なる草とよびオピウムやマリファナといった鎮静剤をジュースなどに入れて飲むといふ。実際には麻というのは日本のマリファナ種であるが、江戸時代には頭痛に対する今で言うバファリンのように使われていたという。今でも日本の各地に麻という名のつく場所が残されているのは、その名残であるといふ。世界を南北に分けると北方では酒類が、南方ではマリファナ種が心の鎮静のために古来より使われたという。インド人はイギリス人が植民地にしようとやってきたとき、マリファナを吸いながら金銀ダイアモンドなどを採っていくイギリス人を眺めていたとも言われている。そのようなインド人とはいかなる人々なのか、私は不思議に協会であの貼り付けられた聖人に幸福を祈りながら考えていた。

                               一人ぼっち                                

僕は小さい頃から一人ぼっちだった。いつもみんなとテンポが違っていて、いじめられたりした。大人になってもサラリーマンになってへまばかりして、よく上司に怒られたというか怒らせた。時々真夜中に一人ぼっちで涙が全くでないほどさみしくなることがある、涙がでないというか、あまりの孤独さゆえに神経が麻痺しているようなのだ。そういう時は音楽を聞いて自分を慰める。音楽を作る人は結構孤独な人が多いんじゃないか?だから何となく共感できたりするんじゃないか?そんな音楽家達を僕は愛している。

                                   岩                                

昨日神社に行った。色々な形の岩が置かれていた。私はその美しさに魅了された。岩は絶対にしゃべらないような気がしたからだ。僕と似ている。静かにまるで人格がないように振舞っている。白い線などが入っているととても綺麗だ。非常に細い線だ。角張り方が非常に不規則でありながら、秩序だっているような岩が一番良い。丁度その神社にはそのような岩がたくさんあり、その岩の中に池があり、コイがゆるりと泳いでいた。池はにごり、ひょっとすると江戸時代からあるんではないかと思われた。コイは私が小学生の時からあの池にいたが、まだ同じコイが生きているんだろうか。白に赤斑点のコイがいた、確か昔もいたような気がする。  

                  危機感、恐怖の不在、気が抜けた状態、不安  

 危機だ!危機だ!!!!! そう言う風に感じることがある。そして恐怖が絶え間なく心を次から次へと新しい訪問客のように訪れる。しかし、ある瞬間に恐怖がなくなり、危機感もすっとんでしまうような出来事がありえる。そうした場合、歓喜が訪れ、世の中はまだ無事だったんだ!と思い、友と共に喜ぶ。  ところが、問題はその後に起こる。今までの疲れを癒すためにぐっすり眠った後、もはや自分には心配することが何も無い事に気づく。そうすると、とても退屈に思え始めるのだ。途方も無く退屈にというか、木々や森や自然の昨日までの美しさがただの写真に見えてしまうのだ。もはや悲劇は現実感が伴わず。全ては架空の出来事だったように思えてくる。  この時である。途方も無い無感覚な不安が私を襲うのは!これほど恐ろしいことがあろうか?何も感じなくなってしまった、享楽が得られなくなってしまうんではないかというこの恐怖。これこそが本当の恐怖である。  悲劇に身を置いている時こそ、本当の幸せが何だかわかるし、本当の悲しみがなんであるかわかる。そのような心の基準=悲劇、がなくなったその時、私達は無気力感で覆われた途方もない砂漠より広い、空より大きい不安に襲われる。そういう時は星が輝く宇宙を見るしかない。なぜなら、宇宙の星々はそういう我々よりもっとずっと長い間、恐らくそういった広漠とした不安を抱き続けてきたに違いないからだ。 ひょっとすると私達は悲劇の中にいる方が幸福なのかもしれない。

                            孤独なピアノ弾き

 僕は孤独なピアノ弾き。毎日朝早くから通勤電車に乗っていく人々の雑踏の中で一人ピアノを弾いている。僕のメロディには世界又は社会に対する恨み、感謝、罪悪感など全てがこもっている。果たして、幾人の人が私のメッセージを聴いてくれているのかはわからない。しかし、時々、私の粗末な演奏舞台の前に数時間に渡って、音楽に聴きいってくれる人々が存在する。そんな人々を私は愛してやまない。私の音楽には自然に対する感謝、感激、恐れなども含まれている。この恐れは神に対する敬虔な信仰から来る恐れに似たものがあり、自然が神様のようにも思えるときがある。そもそも自然なしでは我々は生まれてこなかったからだ。そんな僕の音楽の持つ一面を雑踏の中、満員電車に乗って雑務に苦しむサラリーマンに聴いてもらいたいという私の愛の気持ちが私をたいして儲からないピアノ弾きに摂理(神、自然)は毎朝私をかりださせる。

                             砂漠の中で見た太陽

砂漠の中を歩いていた。足が砂にひきづられ、なかなか前に進まない。ただでさえ、汗でさえ乾燥してしまうほどの暑さだ。そんな中太陽を見つめた。それは、それは悪魔のように美しい太陽だった。恐らくこの世の悪女達はあのような太陽を信仰しているに違いない。恐らく原始宗教が太陽を神としているのもこの辺に原因があるのだろう。ただでさえうろたえているものをもっとうろたえさせる。これが悪女の楽しみであり、誘惑なのだ。私は決してそのような誘惑に屈することはない。砂漠をあるきながら、悪の太陽と戦いながら私は考えた。果たして今まで僕の人生でいったい何回悪女に騙されてきただろうか。なぜ僕はこうも簡単に騙されてしまうのか。涙が出てきた。涙は、乾燥しきった砂漠に落ち、一瞬にして蒸発した。それはあたかも悪女が僕の嘆きに対して「じゃあね」といって去っていくかのようだった、永遠に去っていくのだ。そして、疲れきった僕はきらきら輝く砂漠の中で倒れて気を失った。そして永遠の眠りについた。

                                  

                                自己責任 

我々は自分の意思で行動するが、たまに他人の発言によって心が動かされ、今までの予定になかった行動に移ってしまう事がある。事がうまくいけば、その他人は心の中の先生、師匠などと呼ばれることになり、心の中で確固たる地位を築く人物となる。  しかし、事がうまくいかなかった場合、その他人は自分を破滅させた原因のひょっとして最大の原因と言う事になり、どこかに、誰かに、告訴したくなったりする。しかし、行動をとったのは自分。これを自己責任と世間ではいう。事故責任とも言えるかもしれない。その時そこで、自分がとった行動をなぜしてしまったのか、を考える必要がある。思い出してみよう。その時、自分はあなたは、それが自分にとって、ひょっとすると一番良い選択だと思ったんじゃないのか?違うか?全てそれで人生が薔薇色になるんじゃなかったのか?しかし、僕はあなたは、全部他人のおかげで、とんだ災難に会ったという。しかし、決して忘てはいけない、あの夢に溢れていた日々を。成功した場合にあったはず日々を。

                               友人の死

私が最初にサラリーマンになってから入った会社で最も仲が良かった友人が死んでから数ヶ月たつ。私は彼ほど人の良い人間に会ったことがない。アメリカにも6年。日本にも住んで色々な人と出会ったが、あのような人は2度と会えないのだろうか。 私の聞いた話しによれば、彼は私が辞職を出した某団体の施設の一角で首をつって死んでいたそうだ。最初この話しを聞いたときは、私は信じられなかった。いったい何が起こったのか、縁を切ったつもりだった、あの団体のみんなに電話をした。そしてみなになぜ彼が死ななければいけなかったのか聞いてみた。しかし、誰もがわからないという。みんなとても大きなショックを受けたらしい。暴君として知られた大ボスもしばらくは静かになったという。徹夜なども少しは少なくなったのだろうか。私はこのような社会の仕組みに疑問を感じざるをえない。なぜ彼ほどの良い人が死ななければならないのか。今思い出す。彼とは彼女がいない同士として、さみしく、そしてひそやかに楽しく、くだらない冗談を言って、彼の愛車でよく夕飯を色々なレストランに食べに行った。彼は言っていた、自分には誰にも言えない悩みがある、と。一回だけ間違えて2000円もするざるそばを食べに行ったときだったか、彼はそれを言おうとしたが、言いそびれてしまった。一体それはなんだったのか?決してわからないし、わかってはいけないのかもしれない。私が尊敬する上司に連絡をとったところ、お葬式は施設の外で行われ、お坊さんが来て、これは運命である。といったそうだ。人間には運命というものがある場合があるのか?それとも誰もが運命を持っているのか?いつか分る日がくるのか?

 

           空洞

私はこないだまでは絶対に諦めないつもりでいた。どんなことがあろうともいわゆる「勝てるまでは欲しがりません」のような不屈の精神を持っていた。しかし、全てがなくなりそうになって、もうなくなるのが見えている今、僕はついに諦める決心がついた。そして、その諦めの決定的通知が来た時、私は一晩中泣いた。そして朝も泣きつづけた。もう、何もやることがなくなった。しかしそれ以来、私に不思議な変化が起きた。どうにかして混乱している人を混乱から助け出してあげたい、と思うようになった。そして、毎日、疲れでぼーっとなるまで、如何にして混乱から秩序を見出すかに懸命になった。全ては無償の努力で、全ては人様のためだ。すべてをなくしても、まだ人の役にたてるかもしれないと思った私ははりきった。たとえ、それが役にたたなくても最大の努力をすることに努めた。 未だに私の心は空洞のようで、愛か何か、この空洞を埋めてくれるものを求めているが、心は空洞のままだし、恐らく、これから一生この空洞は埋まらないんだと思える。 よく考えたら、このような悲劇は過去にも起こっているはずだ。しかし、今までの僕はそれはあたかも仮想の物語の世界で、自分とは関係ないと思っていた。そして、そのような悲劇の時代はもう終わっていて、まさか自分がそんな悲劇の中にいるなんて少しも気がついていなかった。結局のところ、人間はいつまでたっても悲劇と感激の間をさ迷いつづけているのだろうか?私にはどうしてもそう思えないのであるが、そう思わざるを得なくなってきた。こういうときは、やたらと人生経験が豊富な人が出てきて、まだあなたは大丈夫、だとか、もっとひどい目にあっている人がいるとかそういうのが出てくるが、なんの慰めにもならない。ひたすら、過去に戻りたくて、実際に最近は昔の夢ばかりを見る。嫌なことに、昔の嫌だったときの夢も多くみる。まるで神様が、全ての罪を悔い改めるように僕に要求しているかのようだ。しかし僕はもう耐えられない。そこで、僕は考え方を少し変えることにした。恐らく、今のこの状態は人生の中で最悪の時なんだろう、と。よって、これからは良い事がきっとあるに違いないと、思うことにした。これは、ダメなのに、無理矢理良く思おうとしているのは違う。ダメでダメでどうしようもないことを100%承知の上で、これからもずっとずっとダメかもしれないのを承知の上で、きっとこれからは良い事があるに違いないと思っているわけで、決して諦めが悪いというようなものではないと思ってます。なので、自分に「どうしたらいいのか」と聞くと何も返事が返ってきません。あるがまま、事実を受け止めるだけです。そういえば最近自然に接していない。自然が僕に訴えるものをあるがままに受け止めたらどうなるだろうか?きっと感動で涙が出るくらいうれしいかもしれない。そうだ、散歩に行ってみよう。旅行に行ってみよう。そしてこの地球が僕に対して訴えるものがあれば見て、聞いてあげることにしよう。恐らくは、それは美しいメッセージに違いなく、私は初めて自然の美しさを「本当に」わかることになるのかもしれない。やっと僕も世の中の色々な情報に無反応になれたからだ。いってみれば、世の中の状況に無反応ということは自分が自然の一部になったようなものだ。だから、自然と共存できるという権利を得ることができる。こんなに難しくて簡単なことはなかなか理解できないものだ。なぜなら、このようなことは、難しいと同時に簡単だからだ。長い修行の旅だった、僕の心のなかでは何千年もたったような感じだ。この文章を書いていくうちに、段々と心の中の空洞が塞がれて行くのを感じた。なぜだろうか?