滅びるならば美しく激しく感情を込めて愛情を込めて

何事でも一つや二つの失敗で全てが狂ってしまうということがある。大抵の場合、それが失敗であることを知っている人がいるが、当人は全くそう思っていない場合が多く、いくら説得しても無理だろう。そういう人がついに力尽きて失敗を認めることがある。西洋にはあるかどうか知らないが、もしくは中国にでさえあるかどうかわからないが、日本には終わるときには美しく終わるという美の文化がある。このあいだ、オランダで安楽死法が成立したが、人間は死にたいという欲望を持っているようである。しかし、そこに美学を持ってくるというのは恐らくわが国ほど洗練されている場合はないだろう。どんなに素晴らしい業績を残した人でも最後にはヨボヨボになって死ぬ運命にある。糞尿さえも自分でできなくなる。ひょっとして、いわゆる偉人と呼ばれるような人達はあまりにも偉人であった美しい自分に惚れこんでおり、自分が年老いて醜くなっていくのをみたくないがために自殺を試みたりするのかもしれない。こういう場合に起こり得る苦痛を考えるとひょっとして我々には安楽死の権利があってもいいのではないか?しかし、そこに美学を持ちこむことは今後のわが国では許されるだろうか?今までのわが国での死に際する美学というものは切腹に代表される「勇気と愛」の行為であった。「愛と勇気」ではなくて「勇気と愛」なのだ。最初はみななぜ切腹などをするのかわからない。しかし、その裏には愛が潜んでいることに多くの人は気がつかない。その愛とはつまり自分が達成できなかった全てに対する愛である。世の中で「できなかったこと全て」に対して愛を告白することなどは原理的に不可能に思える。しかし、切腹の儀式ではそれが恐らく可能なのだ。よって、切腹は人間が行う意思表示の極端な例と考えられ、痛みを伴うにもかかわらず、本人にとっては享楽をもたらす「はず」なのである。なぜなら、それは、今までなし得なかったことと共に心中するようなものだからだ。心中とは永遠の愛を誓うことに他ならない。キリスト教の結婚式で誓う永遠の愛とは違う、その後もうないので、永遠になってしまうのが心中だ。心中の美学にはもう一つの夢が隠されている。それは来世では必ず神様が一緒にしてくれるだろうという夢である。階級制度があった時代に許されなかった愛が心中によって永遠の愛を誓うことによって、それを神様が哀れに思い、来世でのセッティングを設定してくれるという構図である。なんとも美しい世界だ。何事も終わりは美しくあらねばならない。もし、終わりに美しさが欠けていたら、それは幽霊となって回帰する。美しく死んだ人は良き思いで、もしくは彼がなしとげられなかった夢を成し遂げようという気概を後世の人に残してくれる。というか残してしまう。しかし、美しく死ねなかった人は、後世に不安を残すだけである。よって、死もしくは終わりというのはある意味で華やかで、厳かで、愛に満ちていなければならない。そうでない死は何の感動もない。すぐに忘れ去られてしまうだろう。例えどんなに身近の人に愛されていた人が死んだとしてもだ。 そういえば「あなたの死を決して無駄にしない」などという表現がある。これは愛と尊厳と悲しみの美学に満ちている。こういう映画のシーンなどは涙をそそるものだ。そういえば西洋でも、ユダヤ人がホロコーストに行き、集団収容所に入れられて、愛する息子のために自分の命を捨てるという「イル・ポスティーノ」という映画があった。あれこそは、「勇気と愛」に満ちた悲しみの美学の最高傑作かもしれない。決して私はナチスがやったことを良いと言っているのではない。とんでもないことをしたと思っている。しかしながら、歴史上の暴君はホロコーストのような悲劇を残すと共に、彼らの思惑とは反対に迫害された人達に英雄を生んでしまう。それは「勇気と愛」を持って美しく死んでいった人達だ。 こう考えると死とか終わりには美しさがないといけないという考えは決して日本的なものではなく世界共通の考えである可能性があるかもしれない。フロイトも人間には死への欲動があると言っている。しかし、ことはそんなに単純ではない、人間は愛と死の欲動が同時に発生することがあるといった方がいいだろう。ゲーテが言っているが、人間には何かに奉仕したいという欲望がある、フランスの騎士道もその一種だろう、と述べているが、騎士道とは騎士であるからにはやはり死と一緒に生きていると言って良い、しかし、フランス騎士道ではある女性もしくは、自分が仕える君主に対する愛を同時に持ち合わせている。これは日本の武士道にも見られることで、君主のための愛と、死に向かう欲望が相重なって、なんと神風特攻隊などというものまで出来てしまった。人間魚雷などというのもあったらしい。彼らがそういう行為を本当に好んでやっていたかどうかはわからないが、中には本当に真剣にそういった愛と死への欲動を感じた人もいたかもしれない。なぜならば、歴史はどうも我々に人間がそういう性質を持っていることを教えてくれるようだからだ。