精神病の構造
みなさまこんにちは。心理学者かめいのデビュー作となる論文です。 今回は、あたかも演説するかのように書いて行きたいと思います。なぜならば、この話はみなさまに聞いて欲しいものであるからであります。 皆様は精神病と聞いて何を連想されるでしょうか?気違い地味た音楽でしょうか?へんな宗教でしょうか?ナチズムでしょうか? 私は精神病の一面をあらゆる日常で観察します。精神病というこの最も理解されていなく、重要である人類の病について、できるだけわかりやすく解説したいと思います。
さて、我々は生まれるときに、父親というものに遭遇します。最初はそれでも母親であります。しかし、我々は例え父親なしでそだったとしても父親的存在に必ず遭遇するものです。父親とはなんでしょうか?父親とは、我々にとって、母=欲望の原因、を我々に禁止する象徴的な存在であると心理学では考えます。母とは、原始的な我々の求める幻想的かつ絶対的な欲望の対象であります。しかし、我々は生まれてしばらくすると、父または父親的存在によって、永遠の幸福と幼児にとって考えられている母親と言う存在を無くします。これすなわち、享楽の限界=去勢、と心理学では定義します。この状態は、心理学では、正常な状態と考えられています。欲望には限界がある、享楽には限界があると幼児は学び、この真実を背負って我々は生きる使命にあります。
さて、ここで、父親とは何か、という疑問が生じます。父親的存在とは、なんでしょうか?ここで男児の場合を考えたいと思います。男児は、得に母親への愛情が深くなるように出来ており、よりいっそう、母親から離れるのがつらいという運命をもっており、これをエディプスコンプレックスと心理学では呼んでいます。このコンプレックスを排除するための苦しい努力の道のりが心理学で強迫神経症と呼ばれている症状であります。ここまでは、まだ正常です。強迫神経症とは、母への愛情から逃れるための青年の精一杯の努力の結晶です。母への愛と、異性への興味が交錯し、それが重荷になっていき、初めての性的体験からさらに、母への思いと異性への興味が分裂していくところまでこの症状は続きます。女性における強迫神経症とは、かなり異なった形で現れます。女性は幼児であるときは、男児と同じく、母を愛情の対象とし、成長していくきますが、10代の生理的身体変化と共に、母親と自分が似ていることにきがつかされます。ここで、今までの道を捨て、愛情を父親に向けるようになったところで、女性の強迫神経症は終わるのですが、場合によっては、母への愛情がずっと残ってしまい、父への愛情への変化がなかなか進まない場合があります。この場合、女性は愛情の対象を母に向けられないことを怒り、母を憎むようになる場合があります。これは、正常な場合の話です。そして、父親を母親から奪おうとする欲求が出てきて、父親の気を引くための色々な行動をとることがあります。これも正常な行動のパターンです。そうでない場合に女性の強迫神経症は発生します。父親を愛し、母親と友達になれるようになるまで、この場合の強迫神経症は続きます。
さて、本題に戻ります。精神病とは何かです。精神病を理解するには、父親が何であるかを理解しなければいけません。我々には実は複数の父親的存在が存在します。一つは、絶対的な存在としての父親で、これを象徴的父、と呼ぶことにします。もう一つはどうしようもない父親でこれを現実的父と呼びます。もう一つは夢を与えてくれる父親でこれを想像的父と呼びます。正常な状態では、これら三つの父親が主体を囲み、常に心理的崩壊から守っています。これら三つの異なる父親的存在は、ある実在の人物や歴史上の人物など、色々な形をとる場合がありますが、それは主体にとって、とても重要な人達であり、あらゆる行動の決定は、これらの父親的存在と相談しながら行われることがあります。問題は、これらの父親的存在が主体を助けられないくらい、理解不能で、主体が経験したことのない、恐ろしい世界に対面せざるを得なくなった場合に起こります。それが起きた時は、主体は3人の父親に相談しても、答えがでなくなります。この状態を精神病といいます。この3人の父親は、主体の頭脳を三つに仕切って管理しています。絶対的な領域、つまり象徴界は、象徴的父の住む場所です。主体にとって関係ないと思われ、主体が理解しようとしない領域、現実界、は現実的父によって管理されていると主体には理解されます。この「現実」という言葉は心理学的言葉で、通常に使われる場合と意味が違うと思われます。現実界とは、主体にとって、理解不能な領域であると考えられています。この領域に存在する記憶などが理解される時があります。そうした場合は、その記憶群は、象徴界(絶対に正しい領域)に移ることになります。では、象徴的(絶対に正しい)でも、現実的(理解不能)でもない存在というのはどこに整理されるかというと、想像界という領域に整理されると考えます。想像界とは、「かもしれない」で代表される、正確な区分がされていない記憶群が整理されるところであり、いわゆる無意識というのもこの領域に存在するとされる場合もあります。
さて、ここで三つの世界と三つの父親が出てきました。整理すると、
象徴界−絶対に正しいと主体によって考えられている領域、ここに、象徴的父=絶対に正しい人、が住んでいると考えられます。
現実界−主体にとって、無縁で、関係なく、理解しなくてもよく、理解しようとしない数々の記憶群がここに存在すると考えられ、ここに、理解できない父親である現実的父は住んでおり、ダメな父親というイメージをもって主体にある意味で、心安まる存在であったりもします。
想像界−「かもしれない」で代表される、どっちにとでもとれる感覚的な世界で、夢で見るような本当かもしれないし、そうでないかもしれない、世界であり、想像的父、つまり、心が広い父のようなイメージを持った人物がここに住んでいます。 これらの三つの世界と三つの父親が理解し合い、共存している時、人間の心理は正常な状態にあります。これは美しいバランスであり、人間が幸せを感じ取ることができる条件でもあります。
問題は、この三つの世界のバランスが崩れた時に起こります。 心理学では、これを精神病と呼んでいます。例えば、絶対に正しいと思っていた世界(象徴界)が崩壊した時、主体はそれらの記憶群をどこに置いていいのかわからなくなり、とりあえず、想像界(どちらとでもとれる)に置こうとするのですが、さっきまでは絶対に正しかったはずの記憶群であるので、これらの記憶群は、想像界(どっちでも良い)、と象徴界(絶対に正しい)を行ったり来たりします。これが精神病発生の第1段階であるパラノイアといわれる状況を作ることになる場合があります。絶対に正しいと思われたものが、正しくないとすると、主体は、まずそれに対する対処策として、恐らく、自分は騙されていると考えます。そして、ある人物または組織が自分を騙しているに違いないと考えるようになります。この状態をパラノイアと呼びます。しかし、この状態がずっと続くと大変なことになってきます。なぜなら、絶対に正しいはずのことが「誰かのせいで」、絶対に正しくないこととされているからです。これに対し、主体はそんなはずはない、おかしい、と思うようになります。そして、騙されている自分に関する物語も複雑化していきます。万が一、騙されている自分が作り上げたストーリーが本当であった場合は良いですが、そうでなかった場合、それを受け止められれば主体は正常な道へ戻ることができます。この場合は、一時的に居場所が定かでなかった記憶群はそれぞれの居場所を見つけて、3っつの世界の均衡と平和が保たれます。問題、最大の問題、精神病は、これが起こらなかった場合に感情移入を含めた三つの世界の完全崩壊が起きたときに発生します。もはや、この状態(精神病)では、主体が作り上げた騙された自分のストーリーは全く成り立たなくなっており、理解されないで(居場所が見つからないで)いる恐ろしい経験が主体の脳の中で居場所を見つけようとして必死になりますが、どうしても居場所が見つからず、主体は恐怖を覚えます。自分は騙されているはずだったのが、そうでない、のですが、主体はまだ騙されていると考えており、しかし、どうやってだまされているのかがわからなくなってしまうので、主体は混乱します。そして、原始的な欲望が恐ろしい顔をちらつかせ始めます。ここで出て来るのが激しい憎しみです。自分を騙していると思われる対象に対する激しい憎しみです。ここで非常に難しいことが起こります。自分は騙されていないといけないはずです。しかし、騙そうとしているはずの人はそうでないというかもしれません。なので、怒りが発生します。しかし、自分が騙されていると証明するのは、その騙している人が存在していないといけません。なので、自分が騙されている証明として、最後の生き証人として、主体が憎む自分を騙している人が存在していなくてはならず、その人の存在が主体にとって重要になってしまいます。大嫌いなのに重要である、これは愛と似ています。というか、これこそが愛です。憎いものを愛すことが愛です。と同時に自分を愛することが愛です。ここで発生するのが心理学的に言う同性愛です。場合によっては、本当に同性愛に発展する場合があり、人格の崩壊をもたらします。憎い嫌なはずであるものに存在してもらわなければいけないので、普通だったら愛情の対象でないものを愛す癖がついてしまい、それが同性愛という形をとってしまうことがあります。この段階でも、主体が自分の誤りを認め、新しい人間として、新しい三つの世界と共に前に進むことができれば、精神病は終わることになります。が、そうでない場合、自分を騙しているはずの存在へ対する憎しみと、存在してもらわなければ困ることからくる愛情が混在するという通常では理解しがたい状況が発生します。これらの症状を精神病といいます。
これは非常に理解しにくく、その発生は他人に知られざる間に起こる場合が多く、場合によっては殺人などの形を持ってはじめて世間にその存在が知られることとなる場合があり、とても恐ろしい状態であるといわざるを得ません。20世紀に起きたあらゆる恐怖の出来事はほとんどがこの症状を持って説明が可能だと私には思えます。が、ほとんどの人がこの恐ろしい状況の発生の仕組みと、その発生の不可思議な構造を知りたがらない、もしくは知ろうとしない、または、知らない、そして、知る必要がない、と思っているようであり、この病気についいて、一筆、したためねばならないと考えた次第であります。お粗末な解説であったと思われますが、20世紀の悲劇を繰り返さないために、これを無理のない形で万人に知ってもらいたいと思った次第であります。では、良い21世紀を迎えたいです。以上、ありがとうございます。
2000年12月31日 亀井 啓高